LOGIN第4話 名字が違う義兄妹
御影家で迎えた最初の月曜日、私は目覚まし時計が鳴るより十分早く目を覚ました。
新しい部屋の天井に朝日が淡く反射し、開けたまま眠ったカーテンの隙間から、見慣れない庭木の枝が揺れている。昨夜は自分の家ではないような気がしてなかなか眠れなかったのに、寝坊しなかったのは、緊張のおかげというより、廊下の向かい側から規則正しい足音が聞こえてきたからだった。
御影先輩は六時半になると部屋を出て、洗面所へ向かい、七分後には戻ってきた。壁を挟んでいても生活の音が聞こえる距離に、学校で毎日のように言い争っている相手がいる。その事実を意識すると、布団の中でのんびりしていることさえ観察されているようで落ち着かなかった。
制服に着替えて一階へ下りると、食堂には焼きたてのパンとコーヒーの匂いが広がっていた。母は台所と食卓を行き来しながら、私と御影先輩の弁当を同じ色の布で包んでいる。和臣さんは新聞ではなく携帯端末でニュースを読み、御影先輩は背筋を伸ばしてスープを口にしていた。
親子で迎える穏やかな朝食のように見えるが、私にとっては、敵陣へ招かれた初日の作戦会議に近い。
「ひまり、今日は怜央くんと一緒に家を出るのでしょう? 八時十分のバスに乗れば、始業時間より余裕を持って着くそうよ」
母が当然のように尋ねたため、私は椅子へ座る前に首を横へ振った。
「昨日も言ったけれど、一緒には行かないよ。私が先に出るから、御影先輩は次のバスに乗ってください」
「どうして俺が遅い便へ回るんですか。俺は朝七時半に学校へ着き、生徒会室で前日の報告を確認する必要があります。時間をずらすなら、朝倉さんがあとから来てください」
「私は新しい道に慣れていないんです。最初くらい先に行って、迷っても困らない時間を確保したいんですよ」
「昨日、駅とバス停までの道を説明したでしょう。二回曲がるだけの道で迷うことを前提にされても困ります」
朝から始まった言い争いに対し、和臣さんは困るどころか、何かを期待するように私たちを見ていた。
「それなら、なおさら怜央が一緒に行けばいい。ひまりさんも迷わないし、怜央もいつもの時間に着ける。それで解決ではないか」
「解決していません。問題は、私たちが一緒に登校するところを学校の人に見られることなんです」
私が答えると、母はパン籠を食卓へ置きながら、理由が分からないという顔をした。
「同じ家に暮らしている兄妹が一緒に学校へ行っても、おかしくはないでしょう。再婚したことを隠す必要もないのだから、お友達にも話せばいいじゃない」
「お母さんは、先週の全校集会を見ていないから、そんなことが言えるの。私と御影先輩が全校生徒の前で何を話したか知られたら、卒業するまで笑われ続けるよ」
「大げさでしょう。生徒たちは、他人のことをそこまで長く気にしないと思うけれど」
「動画の再生回数は、昨日の時点で一万二千回を超えています。少なくとも青星学園の生徒たちは、他人の失敗を驚くほど長く楽しめる人たちです」
御影先輩が余計な情報を付け加えると、母の動きが止まった。
「動画って、何の話?」
私は彼の横顔を睨んだ。御影先輩は涼しい顔でコーヒーを飲んでおり、自分から騒動を説明するつもりはないらしい。
「学校の活動について少し意見が合わなくて、全校集会で話し合っただけだよ。誰かが勝手に撮影して、面白半分に投稿したの」
「朝倉さんはその場で、俺のような人間が兄だったら三日で家出すると宣言しました。俺も、彼女のような妹を持つほど前世で罪を犯した覚えはないと答えました」
「御影先輩、どうして今、そこまで正確に説明したんですか」
「都合の悪い部分だけ隠せば、あとで動画を見たとき、美月さんが余計に心配するでしょう」
母は一度、私と御影先輩を見比べたあと、笑ってよいのか叱るべきなのか分からない顔になった。和臣さんはしばらく口元を押さえていたが、結局こらえきれず、声を立てて笑い始めた。
「それほど見事な前振りがあった直後に、本当に兄妹になったのか。申し訳ないが、私でも動画を見たくなるよ」
「和臣さん、笑い事ではありません。今それが知られたら、私たちは『予言を現実にした兄妹』として、学校中に面白がられるんです。それだけではなく、私は放課後レターの運営について、生徒会の審査を受ける立場です。審査をする生徒会長と同じ家で暮らしていると分かれば、活動が認められても身内びいきだと言われます」
私が説明すると、御影先輩もカップを置き、今度は真面目な口調で続けた。
「俺も、関係を公表するなら、放課後レターの審査が終わってからにしたほうがいいと考えています。学校へ提出する家庭状況の変更届は必要ですから、事務室と担任には事情を伝えますが、生徒へ積極的に知らせる必要はありません」
「でも、名字が変わったら、すぐに分かってしまうでしょう?」
母が心配そうに私を見たため、私は少し迷いながら、自分の生徒証へ目を落とした。
「お母さんが再婚して御影になっても、私はすぐに名字を変えるわけじゃないでしょう? 前に、そう説明してくれたよね」
「ええ。和臣さんとも相談して、ひまりの名字や戸籍に関わることを、私たちだけでは決めないことにしたの。学校でも、今までどおり朝倉ひまりのままで大丈夫よ」
その答えを聞き、胸の中にあった小さな不安がほどけた。御影家へ来た以上、名字まで当然のように変えられているのではないかと心配していたが、母は前回の反省を忘れていなかったらしい。
私が朝倉で、彼が御影なら、学校で並んでも兄妹だとは気づかれない。あとは同じ家から出るところさえ見られなければ、秘密を守ることは難しくないはずだった。
そう考えた私と御影先輩は話し合いの末、彼がいつもどおり七時十分に家を出て、私は十五分後に出ることにした。乗るバスも一本ずらし、学校の近くで偶然会っても、普段どおり他人として振る舞う。和臣さんはそこまで徹底する必要があるのかと呆れていたが、母は私たちの事情を理解し、しばらく様子を見ることを認めてくれた。
「では、朝倉さん。俺は先に出ます。道は昨夜送った地図どおりですから、迷った場合でも人のせいにしないでください」
「御影先輩こそ、忘れ物をしたからといって戻ってこないでください。同じ門から出てくるところを見られたら、時間をずらした意味がありませんから」
「俺は登校日に忘れ物をしたことがありません。君と同じ基準で心配しないでください」
御影先輩は隙のない制服姿で食堂を出ていった。玄関の扉が閉まる音を確認した私は、残りのスープを急いで飲み、十五分後には余裕を持って家を出るつもりでいた。
ところが、母から渡された弁当を鞄へ入れたところで、英語の課題を自室に忘れたことへ気づいた。二階へ戻り、まだ開けていない段ボール箱を三つ探し、ようやくノートを見つけたときには、出発予定を十分も過ぎていた。
坂道を駆け下り、バス停へ着いた瞬間、目の前で予定していたバスの扉が閉まった。手を振っても運転手には届かず、車体は何事もなかったように走り去っていく。
次のバスを待てば始業時間には間に合うものの、遅延があれば危うい。私は携帯電話で別の経路を調べ、少し離れた大通りの停留所まで走れば、御影先輩が乗ったはずのバスに追いつけることを知った。
十五分ずらすと決めた初日から同じ便に乗れば、間違いなく嫌みを言われる。それでも遅刻するよりはましだと考え、私は鞄を抱えて住宅街を走った。
信号を渡った直後、大通りの停留所へ青いバスが滑り込んできた。閉まりかけた扉へ駆け込み、息を切らしながら乗車したところで、車内の後方に立つ御影先輩と目が合った。
彼は驚いたように目を見開いたあと、腕時計へ視線を落とし、こちらへ戻した。その動作だけで、「十五分後に出た人間が、どうして同じバスに乗っているんですか」という問いが、声を聞かなくても伝わってくる。
私は彼を知らない人として扱うため、空いているつり革を探した。しかし、通勤と通学の時間が重なった車内は混雑しており、御影先輩の近くにしか立てる場所がない。
仕方なく二人分ほどの距離を空けて立ったものの、バスが急に発車したため、私は身体の均衡を崩した。隣の乗客へぶつかる前に、御影先輩の手が私の腕をつかんだ。
「危ないですよ、朝倉さん。走って乗ってきたのなら、せめて発車する前につり革をつかんでください」
彼は普段と変わらない声で注意し、私が体勢を立て直すとすぐに手を離した。
「ありがとうございます、御影先輩。わざわざご指導いただかなくても、次からは気をつけます」
「それなら結構です。朝から生徒が転倒するところを見れば、誰であっても支える程度のことはしますから」
周囲から聞けば、顔見知りの先輩と後輩が偶然同じバスへ乗り合わせただけに聞こえただろう。しかし、他人行儀な言葉を交わす私たちの間には、今朝同じ食卓でスープを飲み、昨日まで冷蔵庫の棚を争っていたという秘密がある。
私がつり革を握ると、御影先輩はそれ以上話しかけてこなかった。秘密を守るために決めたことなのだから当然なのに、窓へ視線を向けた横顔が、同じ家を出たときより遠くに感じられた。
青星学園前の停留所で降りると、私は彼から距離を取り、校門へ向かった。ところが、昇降口へ着いたところで美緒に腕を取られ、植え込みの陰へ引き込まれた。
「ひまり、今朝、御影先輩と同じバスから降りてきたでしょう。あれだけ全校生徒の前で喧嘩しておいて、実は住んでいる方面が同じだったの?」
「引っ越したら、たまたま同じ路線になっただけよ。御影先輩とはバスで会ったけれど、一緒に来たわけじゃないから」
「私、まだ一緒に来たとは言っていないんだけれど、どうして先回りして否定したの?」
美緒は疑わしそうに目を細めた。私は質問へ答える代わりに、始業時間が近いと言って校舎へ逃げ込んだが、背中へ向けられた視線は教室へ入るまで消えなかった。
放課後、私は「放課後レター」の改善計画を提出するため、生徒会室を訪れた。室内には御影先輩だけでなく、副生徒会長の瀬名湊先輩と会計の九条沙羅先輩もいる。
私が作成した書類を渡すと、御影先輩は一ページ目から時間をかけて読み始めた。家では朝食を共にした相手が、学校では私を大勢いる生徒の一人として審査している。その態度が正しいと理解していても、居心地が悪いことに変わりはなかった。
「投稿内容を管理する担当者が、朝倉さん一人のままになっています。この体制では、君が病気や用事で確認できない間、緊急性の高い相談が放置される可能性があります。以前も指摘しましたが、複数の担当者を置いてください」
「相談内容は個人的なものですから、簡単に見られる人を増やすわけにはいきません。信頼できる協力者が見つかるまでは、私が責任を持って確認します」
「責任を持つという言葉は、問題が起きたあとに君が謝れば済むという意味ではありません。担当者を増やすことで情報を知る人間が増える危険と、一人で管理することで見落としが生じる危険を比較し、仕組みとして説明してください」
いつも以上に厳しい言葉だった。朝倉さんと呼ぶ声も、バスの中よりさらに他人行儀に聞こえる。
「分かりました。修正して、明日までに提出します」
「明日ではなく、木曜日までで構いません。急いで不十分なものを出されても、確認する側の仕事が増えるだけです」
「お気遣いありがとうございます。御影会長の仕事を増やさないよう、十分注意します」
私が頭を下げると、瀬名先輩が二人の顔を見比べながら苦笑した。
「先週から思っていたけれど、君たちは話し合いを始めると、どうして毎回そこまで険悪になるんだ。怜央も、正しいことを言えば相手が傷つかないわけではないんだから、少しは言い方を考えたほうがいいぞ」
「審査に必要な指摘をしただけです。ここで曖昧な評価をすれば、朝倉さん本人が困ることになります」
「私は困りません。御影会長が私のことを信用していないのは、最初から分かっていますから」
御影先輩の眉がわずかに動いたが、彼は何も言い返さなかった。私は書類を鞄へしまい、失礼しますと告げて生徒会室を出た。
帰宅すると、玄関には彼の靴がまだなかった。先に家へ着けたことへ安心した反面、学校で向けられた冷たい表情を思い出し、私は自分の部屋へ入って扉を閉めた。
同じ家で暮らしていることが知られれば、身内びいきだと思われる。だから彼が厳しくなることも、学校では他人として接することも、朝に自分たちで決めたばかりだった。
それでも、私が望んだのは普通に接してもらうことであって、嫌われていると改めて思い知らされることではない。そんな不満を御影先輩本人へ言えるはずもなく、私は「放課後レター」の個別連絡欄を開いた。
『学校では、家にいるときよりもずっと冷たい人がいます。私たちの関係を知られたくない事情があるので、距離を置かれること自体には納得しています。でも、必要以上に突き放されると、私と関わることを恥ずかしいと思われているようで腹が立ちます。事情を分かっているのに傷つく私は、面倒な人間でしょうか』
送り先は、一年以上やり取りしている「午前零時」だった。今回ばかりは詳しい事情を書けないため、かなり曖昧な相談になってしまった。それでも送信して十分ほどすると、返信を知らせる表示が現れた。
『事情を理解できることと、傷つかないことは別だと思います。相手は関係を隠したいのではなく、大切な秘密を守ろうとして、距離の取り方を間違えているのかもしれません。ただし、それはあなたが我慢し続ける理由にはならないので、何が嫌だったのかを本人へ伝えてみてください。言葉にしなければ、相手は正しい距離を選べません』
画面を読み返していると、廊下の向こうで扉が開く音がした。御影先輩が帰ってきたらしく、向かいの部屋から鞄を置く気配が伝わってくる。
匿名の相手には素直に弱音を吐けるのに、壁一枚向こうにいる御影先輩には、腹が立ったとさえ言えない。自分でも面倒だと思いながら、私は携帯電話を机へ置いた。
喉が渇いたため部屋を出ると、ほとんど同時に向かいの扉も開いた。御影先輩は片手に携帯電話を持っており、私を見るなり画面を伏せた。私も相談内容を見られたくなかったので、反射的に携帯電話を胸元へ隠した。
「何ですか」
「何でもありません。朝倉さんこそ、人の顔を見るなり携帯電話を隠さないでください。俺の悪口でも書いていたんですか」
「書いていたとしても、本人に読ませる人はいません。それより、学校であそこまで他人らしく振る舞う必要がありますか。秘密を守りたい気持ちは分かりますが、私だけを信用していないような言い方をされたら、誰だって腹が立ちます」
御影先輩は反論しかけて口を閉じ、先ほどまで見ていた携帯電話へ一度だけ目を落とした。そのあと、いつものように正しさを並べるのではなく、言葉を慎重に選びながら答えた。
「今日の俺は、君へ甘いと思われないよう意識しすぎていたのかもしれません。審査内容を変えるつもりはありませんが、伝え方まで冷たくする必要はなかった。その点については謝ります」
「御影先輩でも、自分の間違いをその日のうちに認められるんですね」
「謝罪された直後に嫌みを返すのは、相手が次に謝りにくくなる行為です。君も覚えておいたほうがいいでしょう」
「そうやって一言多いところを直せば、もっと素直に受け取れます」
言い合いはしたものの、胸に引っかかっていたものは少し軽くなった。御影先輩も、私と関わることを恥ずかしいと思っていたわけではないらしい。
彼は廊下の壁へ背を預け、考え込むように腕を組んだ。
「学校と家で関係を切り替える以上、今後も今日のような誤解は起きるでしょう。互いに守るべきことと、してはいけないことを、もう少し具体的に決めたほうがよさそうです」
「また規則ですか。御影先輩は、話し合いを紙に書かないと落ち着かないんですね」
「口約束のまま忘れられるよりは確実です。ただし、今回は君も作成に加わってください。あとから、勝手に決められたと言って家出されては困りますから」
私は昨日の失敗を持ち出されたことへ腹を立てたが、何も決めないまま同じ問題を繰り返すよりはましだった。
「分かりました。それなら、御影先輩だけに都合のいい内容にならないよう、私が書きます。学校では他人として接すること、互いの部屋には勝手に入らないこと、それから、家でまで生徒会長の権限を使わないことも必要ですね」
「最後の項目は却下します。そもそも、家庭内で生徒会長の権限を使った覚えはありません」
「却下するかどうかは、完成したものを読んでから決めてください。明日までには、文句をつけようのない義兄妹契約書を作ってみせます」
勢いに任せて宣言すると、御影先輩は呆れたようにため息をついた。しかし、部屋へ戻る直前、彼の口元には、学校では一度も見せなかった小さな笑みが浮かんでいた。
学校では、名字の違う他人であり、家では、まだ家族になりきれない義兄妹である。
その複雑な関係を整理するために作る契約書が、さらに一つ、余計な問題を増やすことになるとは、このときの私は考えてもいなかった。
土曜日の朝、私が自分の部屋を片づけている間に、怜央さんは玄関のスリッパを三回並べ直していた。 一度目は左右がそろっていなかったから、二度目は靴箱の扉に近すぎたから。そして三度目は、私が通りかかったときに理由を聞いたせいで、本人も説明するのを諦めた。「踏んで滑らない位置を考えてた」「美緒、普通に歩けるよ。玄関で難しいことはしないから」「分かってる。部屋の片づけは終わったのか?」 都合の悪い質問を返され、私は手にしていた漫画を背中へ回した。探していた巻は見つかったものの、その過程で別の箱を開けてしまい、部屋の床は朝より狭くなっている。「今、最後の調整をしてるところ」「それなら、玄関より自分の部屋を気にしたほうがいい」 正論を置いてリビングへ戻る背中に、私は小さく舌を出した。どうやら、普通にしていてほしいというお願いは、今のところ半分くらいしか届いていない。 午後、駅まで迎えに行くと、美緒は小さな紙袋を提げて改札から出てきた。中身は家族で食べてほしいという煎餅で、母の店が菓子を扱っているから迷った末、甘くないものにしたらしい。「お母さんが喜ぶと思う。仕事では甘いものばっかりだから、家だとしょっぱいもの食べたがるんだよね」「よかった。あと私、ちゃんと普通にするから。先輩が家にいるからって、変にかしこまったりしないし」 その言葉を信じて坂道を上ったのに、玄関で怜央さんが迎えに出た瞬間、美緒の背筋は見事に伸びた。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんな挨拶、私の家で聞いたことないんだけど」「ちょっと待って。私も今、自分でびっくりした」 美緒は小声で答えたが、すぐ目の前にいる怜央さんには聞こえていたらしい。彼は笑いをこらえるように口元を引き締め、代わりに一歩横へよけた。「どうぞ、上がってください。荷物はこちらへ……いや、持ったままで大丈夫です。ひまり、先に案内してあげて」「美緒はお客様だけど、視察に来た人じゃないからね。あと、荷物をどこに置くかは、リビングに着いてから決めればいいと思う」 私が先に廊下へ上がる
月曜日の放課後、美緒は私の机まで来ると、鞄を抱えたまま少し考え、こんなことを言った。「今日の話って、甘いものを食べながら聞いても大丈夫なやつ?」 朝から何度も頭の中で説明を練習していた私は、用意していなかった質問に顔を上げた。美緒はふざけているというより、行き先を決めかねている顔だった。「大丈夫だと思うけど、どうして?」「真面目な話の途中でお腹が鳴るの、嫌じゃない。私、今日のお弁当、見た目よりご飯が少なかったんだよね。お母さんがおかずの下にブロッコリーを詰めてて、食べ進めても白米にたどり着かなかった」 その説明を聞いた途端、胸のあたりに詰まっていたものが少し緩んだ。私が一日中、秘密を打ち明けることばかり考えている間、美緒は美緒で、弁当箱の底に予想外の緑を発見していたらしい。「じゃあ、どこか寄ろう。できれば、学校の人があんまりいないところがいいんだけど」「了解。駅の向こうなら、今の時間は空いてると思う」 美緒はそれ以上、教室では尋ねなかった。帰り支度を終えた私に、机の脇へ掛けたままのサブバッグを指で示し、それを受け取ると、いつものように先に廊下へ出た。 私はその背中を見ながら、今日ちゃんと話そう、ともう一度思った。 駅から少し離れた喫茶店は、窓際に年配の夫婦が一組いるだけだった。私たちは奥の二人掛けの席に座り、飲み物とプリンを注文した。店員さんが去ったあと、美緒は鞄を隣の籠に入れ、私のほうへ向き直った。「それで、引っ越しの話って?」 待ってくれていた声だった。急かされていないのに、私は背筋を伸ばした。「お母さんが再婚したことは、前に話したよね。その相手の人に、息子さんがいるんだ」「うん。じゃあ、今はその人とも一緒に暮らしてるの?」「そう。私より一つ上で、同じ学校に通ってて」 美緒の眉がわずかに動いた。私はそこで言葉を止めず、膝の上で両手を重ねたまま続けた。「御影先輩なんだ。お母さんが結婚したの、御影先輩のお父さんとで……今、四人で暮らしてる」 美緒は私を見たまま動かなかった。 窓際でカップが受け皿に置かれる音が
お茶の時間が終わって、二人で食器を洗い始めても、私は美緒への返事を考えていた。 来てほしいのは本当だった。新しい部屋を見せたいし、引っ越しのときに奥へ押し込んだ漫画を一緒に探すのも楽しそうだ。ただ、その楽しみを思い浮かべるたび、玄関で怜央さんと鉢合わせした美緒が、靴を片方だけ脱いだ姿勢で固まるところまで想像してしまう。 それなら先に話せばいい。分かっているのに、スポンジでこすっている皿の裏側ばかりが、いつまでも気になった。「ひまり。その皿、もう十分きれいだと思う」 隣でカップを拭いていた怜央さんに言われ、私は蛇口の下へ皿を移した。泡が流れ落ちた白い陶器には、傷ひとつ残っていない。代わりに、私の中の考えは同じところを何度も回っていた。「来週の土曜日って、何時ごろ出かける?」 口にしてから、聞き方を間違えたと気づいた。 怜央さんは布巾の中でカップを半周させ、持ち手の付け根を拭いた。「まだ決めてない。午前中に本屋へ行こうかと思ってたけど、午後のほうが都合がいいなら、そうする」「帰る時間も、変えられる?」「中原さんが帰ってから戻ればいいか?」 彼の声は、責めるものではなかった。それがかえって、私のしていることを分かりやすくした。 さっきまで、彼のカップを隠したくないと思っていたくせに、最初に尋ねたのが不在の時間だ。きれいなことを考えるだけなら簡単で、実際に動こうとすると、私はすぐ面倒の少なそうなほうへ手を伸ばしてしまう。「ごめん。今の聞き方、なしにして」 蛇口を閉めると、水音が途切れたぶん、声が思ったより大きく響いた。「あなたに外へ出ていてもらえば、美緒に説明しなくて済むって、ちょっと考えた。でも、それだと次に来るときも同じことになるよね」「一度くらいなら、俺は構わないけど」「一度で済まなくなる気がするの。今日は都合が悪いとか、家族がいるからとか、理由をつけるのはできるけど……そのうち、美緒を呼ぶこと自体が面倒になりそうで」 濡れた手をタオルで包みながら、私は食器棚を見た。 そこには母が持ってきた皿と、この家にもとも
土曜日の午後、私は焼き菓子を六種類も皿に並べてから、さすがに少し張り切りすぎたと気づいた。 紅茶のサブレに、焦がしバターのフィナンシェ。薄く切ったレモンケーキと、小さなマドレーヌ。そこまではよかったのに、甘いものばかりでは飽きるかもしれないとチーズのクッキーを足し、最後に、自分が食べたかったという理由だけでチョコレートのパウンドケーキまで加えてしまった。 母の店で選んでいるときは、どれも少しずつに見えたのだ。ところが家の皿に移した途端、それぞれが急に存在感を主張し始めた。 風邪はすっかりよくなり、木曜日から学校にも戻っている。食欲も元どおりだとはいえ、これは回復の証拠としては度が過ぎている気がした。「……何人来るんだ?」 リビングの入り口で足を止めた怜央さんが、テーブルと私を交互に見た。 制服ではなく、薄い灰色のシャツに黒いパンツという格好だった。家では何度も見ているはずなのに、わざわざお茶に誘ったせいで、今日は来客を迎えたような気分になる。そのくせ彼はこの家の住人なので、私が出し忘れたコースターを迷いなく棚から取り出した。「二人だけですけど。何か問題でも?」「問題というか、俺の知らないところで美月さんたちの分も用意したのかと思って。二人とも夕方まで戻らないだろう」「全部食べなきゃいけないわけじゃないから。好きなのを選べるようにしただけ」「それなら、袋のまま残しておいてもよかったんじゃないか」 正論だったので、私はポットの蓋を直すふりをした。 看病のお礼にお茶をいれる。それだけの約束だったはずなのに、いざ準備を始めると、少ないと思われたくないし、好みに合わないものばかりでも嫌だった。迷ったものを全部買った結果が、この小さな菓子売り場である。「怜央さんが何を好きなのか、よく分からなかったんだもん。甘いものは食べるけど、自分から選んでるところ、あんまり見たことなかったし」 彼は皿に目を落とし、今度はひとつずつ確かめるように眺めた。「それで、これだけ選んだのか」「言い方に気をつけて。いま私、自分でも少し反省してるから」「いや。ありがとう」
翌朝、私は学校を休んだ。 熱が下がりきっていなかったこともあるけれど、制服に着替えるところを想像しただけで疲れたので、母に休もうと言われたときには素直にうなずいた。昨日あれだけ人の手を借りておいて、また途中で動けなくなるのは嫌だったし、何より、布団が私を手放す気配を見せなかった。 怜央さんは登校前、扉の外から声をかけてきた。「学校から必要な連絡があれば、帰ってから伝える。放課後レターの資料も、今日は開かなくていいから」「その言い方だと、私が隠れて仕事をする人みたいなんだけど」「違うなら安心した。じゃあ、いってくる」 反論する前に足音が遠ざかった。枕の下には、昨夜から気になっていた再開案の印刷物が一枚だけ挟まっている。見つかっていないはずなのに、私は誰もいない部屋でそれを抜き出し、机の引き出しへしまった。 代わりに目に入ったのが、昨日の看病の予定表だった。 母が書き足した、怜央さんも早く寝ること、という項目の隣に、鉛筆で小さく『できました』と書いてみる。ところが、子どもの宿題を採点しているようで落ち着かず、すぐ消した。消し跡を指で払っ
次に目が覚めたとき、窓に映る部屋のほうが、外の景色より明るくなっていた。机の隅には小さな照明がついていて、カーテンの向こうから、車が坂を上っていく音が聞こえる。喉はまだ痛いけれど、布団から腕を出すのさえ億劫だった夕方よりは、少しだけ体を動かす気になれた。 枕元の水を飲んでいると、お腹が鳴った。寝る前には桃のゼリーだけで十分だったくせに、私の胃は回復の手柄を独り占めする勢いで働き始めている。 スマートフォンで母に起きたことを伝えると、ほどなく廊下から足音がした。ただし、ノックに続いて聞こえたのは、母ではなく怜央さんの声だった。「夕飯、少し食べられそうか。美月さんが、卵の雑炊ならあると言ってる」「食べたい。自分で下りるから、置いておいてもらっていい?」「持ってくる。階段を往復する元気があるなら、その分を食べるほうに使ってくれ」 それには素直に甘えることにした。さっきまでなら、自分でできると言い張っていたかもしれないけれど、足を布団から出した途端に床の冷たさを思い出し、私の自立心はあっさり引っ込んだ。 少しして入ってきた怜央さんは、湯気の立つ器を載せた盆を机に置いた。卵の黄色に、細かく刻んだ青菜が混じっている。だしの匂いを吸い込むと、急にお腹